僕の学生時代は村上春樹の作品と共にあった。図書館に行けば彼の本を借りてきて読み、読み終わればまた彼の本を借りてきて読んだ。僕の地元の図書館の隣にはミスタードーナツがあり(そもそも、図書館がデパートの一部のように寄り添っていた)、天気がよければデパートの屋上(そしてそれは図書館の屋上でもある)で買ってきたドーナツを食べながら読んだ。当時の僕がそう思って行動していたのだから、そうなのだと今でも思っているが、なかなか洒落た学生だ。いや、あまりにも影響を受けやすい学生だったとも言えるが。中学の時には、図書委員の権限を使って学校の図書館に村上春樹全集を収蔵させた。村上春樹は当時から確実に売れっ子作家であったが、今ほどの風潮はなかったはずだ。図書委員の指導を勤めていた英語教師は、僕が村上春樹全集を図書室におきましょうといったのをたいそう喜んでいたのを憶えている。また僕の高校生時代は彼のおかげで「本をよく読む文学に親しみのある学生」のふりができた。国語教師は現代小説の話になると喜び勇んで僕を指名した。
2009年に「1Q84」が発売された時、僕はまだ高校生だったはずだ。乗換駅の構内にある本屋でハードカバーのそれを買い、さも大事なお守りであるかのように通学鞄の中に忍ばせ続けた。ただ僕はそれを読まなかった。今でも、50ページほど読んでほったらかしてしまっている。1Q84という作品がつまらなかったわけではなくむしろ真逆で、この時期の僕は活字の持つ魅力に恐れをなしていた。つまり、本を開けば、平気で何時間も読みふけってしまうことを、可能な限り自制することに努めた。十代のこの時、僕は確実に生き急いでいた。そしてそのまま、「1Q84」は、二度の引越しを経てもなお、僕の自宅の本棚に眠り続けている。
「多崎つくる」も、全く同じだった。村上春樹の新作が出ると聞いて、義務的に購入した。そして義務的に10ページほど読んで、やめた。その頃にはもう僕には読書をする習慣が全くなかった。活字に対する渇望は、インターネットで垂れ流されている文学性のかけらもない文字列たちで満たしていた。
「多崎つくる」を読もうと思ったきっかけは、「騎士団長殺し」だ。新作が出た。買ったまま読んでいない本から先に手をつけよう。「多崎つくる」のほうが「1Q84」より短い。積みゲーを消化するようなものだった。
僕が村上春樹の作品に惹かれている理由は最初に「海辺のカフカ」を読んだ時から一貫して変わらない。そこに描かれている世界は「あってもいい」と思える世界だから。「やみくろ」も「ホシノくん」も、あるいは「計算士」という職業に対しても、この現実の日本に実在しててもいいじゃないかと、そう思わせるのが彼の作品の魅力だと思っている。よく彼の作品の主人公は、決まってガールフレンドがいたり(あとすぐ寝る)昼飯にスパゲティをゆでてそれを理由に電話をいやがったり、紀伊国屋で野菜を買ったり、弁護士の小間使いだったり、翻訳の仕事をしていたり、あるいは「計算士」であったりするため、しばしば「共感性に欠ける」などと批判されるのをよく見る(つまり簡単に言えば読者との生活水準の差が眼に余るという話だ)が、構わないじゃないかと。この考えは僕が「ハルキスト」であるなによりの証明かもしれない。しかし日本は1億を超える人口を抱えていて、僕は実際住んでいるマンションの隣の人が一体誰なのかさえ知らない。翻訳者かもしれないし、計算士かもしれない。当然だ。そして僕が時々利用する京都市営地下鉄にも「やみくろ」は実在しているかもしれない。それくらい「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が好きとも言えるが。
僕は彼の作品がそう思わせる最大の要因は、彼の文才にあると思っていた。僕は彼の作品を読んでいる時は頭の中に映画のような鮮明な映像を思い描くことができたし、むしろそれを楽しんでいた。彼の作品が面白いとか、面白くないとか、そういうことはあまり関係なく、彼の文章が僕の脳みそにそう働きかけてきてくれることになによりも興奮していた。
高校生の頃文芸部に所属していた。特に主だった活動のない気楽な部活だったが、文化際に出す部誌に出す作品は読み合わせが行われた。僕は村上春樹の文体を真似た作品を出していた。「まるで実際に見てきたかのようなリアリティがある」と褒められた。絵の仕事を選ばず、文章の仕事を選べと言われたことさえある。なので僕は、村上春樹の作品の魅力はそこにあるのだとおもっていた。だからこそ、僕のような人間でも頭の中に一本の鮮明な映画を作ることができるのかもしれないと。
長らくその考えは揺るがなかったのだが、「多崎つくる」を読んで少し考えが変わった。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は非常にシンプルな作品だ。今からあらすじを書くが、はっきり言ってそのあらすじだけで作品の1/4を消化してしまうことになる。
多崎つくるは名古屋の高校生だった頃、かなり親密にしていた男女の5人グループに属していた。彼らの関係は完璧だったが、多崎つくるが東京の大学に出てしばらく、理由もなくグループからの追放が行われた。彼はそれにひどく傷つき、一旦は死の淵まで追いやられる。彼には追放の理由がわからず、他の四人を恨みさえする。その理由は30代になった今もわからない。わからないままにしておこうと思う。しかし彼のガールフレンドは「いや、あかんでそんなん。本人らに訊いてこいや。ええな」という。
多崎つくるにはコンプレックスがあった。それは、名前に色を持ち、それぞれが個性的に輝いている他の4人に比べ、自分には「圧倒的に何もない」ということだった。多崎つくるは、その完璧な関係を抱えているグループ内においても、いわば「仲良くしてもらえる理由」を自分の中に見出せなかった。それでも仲良くしてくれるんだしいいんじゃないか、と思っていたら、突然追放されたのだ。
この感覚はものすごく普遍的なものじゃないかと思う。自分には魅力がない、他人に好いてもらえる理由がない。目の前の今仲良くしてくれている人物は、たまたま自分が心地の良い止まり木のようなもので、いずれは去ってしまうかもしれない。これは、人間関係に困難を抱いたことのある人間ならば、きっと誰にでも心当たりのある感覚だと思う。いや、そうだと信じたいのだと思う。僕にはその心当たりしかない。
多崎つくるの家はお金持ちである。我々読者は俯瞰的な視点を持ちがちなので、「実家が金持ちでお金に困らないくせになんだよ」と思いがちだが、これはむしろ多崎つくるのもつコンプレックスにノイズを加えないためだと思う。つまり我々は、仮に多崎つくるがあまり経済的に恵まれていない場合、そこに理由を求めてしまうということだ。しかし違う。多崎つくるの抱えていた悩みはあくまでも普遍的なものだ。誰でもかかる風邪のように。
普遍的な悩みを抱えていた多崎つくるは、我々が現実世界ではなかなか実行できない(一般的には、実行するとよくないとされている)「過去のことを掘り返して、聞きにいく」という指令を受け、そして実行する。ここからはわかりやすい小説のカタルシスが続く。多崎つくるは彼が思っているほど平凡な人間じゃなかったし、無個性でもなかった。ある意味、多崎つくるが「自分はあまりにも何もない」と強く感じている個性のせいで、幾つかの関係を失ってさえいる。色を持つ他のメンバーと同じく、多崎つくるもそれなりに個性的な人生を歩んでいる。そして、一方的に恨んでいた他のメンバーにもそれぞれ多崎つくるが「死の淵を彷徨った」のと同程度と言えるような闇を抱えている。そういうことを皆が丁寧に教えてくれる。やさしい世界。現実ではそうはいくまい。ツイッターに「昔の友人に会ったけど自分だけ苦労してるみたいな顔されてクソだった」と書かれるのがオチである。でもこれは小説である。そして、この世界のどこかには、そういう懇切丁寧に説明してくれる大人がいてもいいかもしれないと思う。そして恐ろしいことに、この小説にも村上春樹特有の恐ろしい「悪」が登場する。そしてその「悪」も残念ながらこの世界に確実に存在する。多崎つくるがそれを直視しなければならなかったように、我々もいずれこのことについて直視しなければならない。
村上春樹の作品に対していただいていた、「いてもいいじゃないだろうか」と思う気持ちは、描写力ではなく、その「普遍的な悩み」なのだろうと、多崎つくるを読んで思った。陳腐な表現をすれば、大島さんが抱いている悩みも、すみれとミュウの抱いていた悩みも、そして多崎つくるの抱いていた悩みも、それぞれがそれぞれに特徴的な境遇があり彩られ気付きにくいが、根本にある悩みは我々の抱いている悩みとあまり遠くないんじゃないだろうかと。これは昔から言われているように(もしかしたら本人が言っていたかもしれない)、学生運動を筆頭とする全体化主義から個人主義に移りゆく過渡期に生きる我々ならば、誰でも罹り得る風邪である。それが僕が村上春樹作品や、その登場人物たちに抱く、「そんな人がいてもいい」といわしめる理由なのだろう。そしてこの集合的無意識ともいえる「普遍的悩み」は、我々にも手軽なカタルシスをあたえてくれる。そして、この世に「悪」が実在する事実と、それに立ち向かったかのような気持ちをくれる。
しかし、正確に言えば、この作品はそれを意図的に、明確に、バカの僕でもわかりやすく指し示してくれているのだと思う。死ぬほど鈍感な多崎つくる氏に対してだけではなく。カービィ64のエンディングのようなものだ。ハッピーエンドに終わったかに見えても味方キャラクターだったやつが邪悪ににやりと笑う。子供でもわかる。「これで終わりじゃないし、何かある」。「多崎つくる」も全く同じである。
そういう意味でとても面白い作品だった。「何か」についてはもう一度読んでもよかったのだけど、まとまっているサイトがあったため、短絡的な現代人である僕はそれを読んだ。ここに書いてあることがすとんと腑に落ちたのは、僕がこの手の文章を信じやすい性格ではないことを祈りたいばかりだ。
またこの小説を「リアリズム小説」を突き詰めた一つの結果だとし、このページの言葉を借りるとするなら、我々が読んでいて「まあどうせなんかオカルティックなやつやろ」と思いたくなるその現象さえも「リアリズム」の一端であると考えることができるようにおもう。そしてその「オカルティックなやつ」も、ハルキストの僕に言わせれば現実に存在していい要素のひとつである。オカルティックな場合もあるし、そうじゃない場合もある。今回はそうじゃない場合だった。
というわけで、個人的に村上春樹の作品の魅力を簡単に説明するにはうってつけの小説だなあ、と思った。村上春樹はマジで死ぬほど個人主義社会の悩みを書くのが上手いな〜〜!!!というその感心だけで4500文字を書かせる男であることに改めて驚く。まあこんな文章ちっとも意味がないかもしれないが。
さてこっから下は邪なタイプの感想です。これを書くために真面目な感想文を4500文字も書いてしまった。いいですか。全国の腐女子は「多崎つくる」を読みなさい。いいですね。そして、我々が推しカプに対して普遍的に抱いてるテーマを村上春樹が書いたという事実と、その文章に震えてください。いいですね。これを読んで「普遍的なテーマ??」とおもった人は、僕とBL観が違うだけだとおもいます。
こっからはもはや本を読む必要がないレベルでネタバレを書くわよ〜〜〜!!!(実際は村上春樹が書いたその文章が一番大事なので読む必要はある)
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